カテゴリ:お話(丹後七姫伝説)( 9 )

 

丹後七姫伝説・番外編・安寿姫

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稲穂がふくらんできましたね。
青々としてさわやかで、思わずシャッターを切りました。


さて、丹後七姫伝説、番外編です。舞鶴までの七姫には、「安寿姫」が入り、丹後だけの七姫には、川上摩須郎女(かわかみのますのいらつめ)が入ります。


安寿姫


ご存知「森鴎外」の「山椒大夫」の主人公、「安寿姫」です。
由良川に残る「伝説」を、森鴎外が小説に仕上げた、有名な悲話です。
今も、山椒大夫の息子、三郎の墓や、安寿が入水したという池の地の安寿を祀った塚が残ります。


 今からおよそ800年前の平安時代、無実の罪によって筑紫に流された奥州の太守岩城判官将氏の二子、姉安寿姫と弟津塩(厨子王)丸は父を慕い、母と共に筑紫へ下ったが、越後の国まで来た時、だまされて母は佐渡ヶ島へ売られ、姉弟は丹後の由良へ連れてこられ、三庄太夫に売られて奴隷にされてしまいました。 
姉は海へ潮汲み、弟は山の薪取りをさせられ、毎日むごい仕打ちを受けました。 
堪え切れず、二人は屋敷を逃れ、厨子王は国分寺に隠れ、和尚の義侠によって追手の難を逃れ、やがて京都清水寺へ入り、のちのち、そこで成人し出世します。
父はすでに他界していて、厨子王は佐渡に渡り、母と再会します。
一方、姉の安寿は、京へ上がろうとする途中、由良川のほとりで息絶えたといいます。 
疲労と空腹の為、または入水して、という説があります。




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今日の夕日ヶ浦。
台風12号の影響はまだ無く、多くのお客様が海を楽しんでおられます。






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by ryouriryokanishi | 2014-08-04 16:05 | お話(丹後七姫伝説)  

丹後七姫伝説のご紹介・羽衣天女その二

羽衣天女


 「羽衣天女のお話」、そのお伽噺のルーツは丹後にあります。古くより韓国・中国との交流の西の玄関として丹後は存在しました。丹後は、大陸から船出して一番近い外国だったのです。物語もそうして船と共に訪れ、やがてかたちを変えて日本のお伽噺となりました。


峰山に残る羽衣天女の物語・その二

昔むかし、峰山の比治山の頂近くに大きな美しい池があり、八人の天女が水浴びをしていました。
美しい一枚の羽衣を三右衛門という狩人は隠してしまいます。
天女と一緒に暮らすことになった三右衛門は、三人の美しい女児をもうけました。
天女は農業・養蚕・機織・酒造りが上手で比治の里はすっかり豊かになりましたが、天女は大黒柱に隠した羽衣を見つけて「七日七日に会いましょう」と言い残し天に帰ります。
天の邪鬼は、三右衛門に「七月七日に会いましょう」と伝えました。
天女の残した夕顔の種を蒔いてその蔓を天まで登り、天女に会った三右衛門ですが、天の架け橋を完成させるまで天女を思い出さないという天帝との約束を破り、天の川は大洪水になり、下界へ流されてしまいました。
その後、毎年七月七日には天女が三右衛門と娘に会いにくるそうです。
天女の娘を祀った「乙女神社」にお参りすると、美しい女の子を授かると、人気があり、大勢の方がお参りされます。 


今の「羽衣天女」のお話に近いですね。
峰山には「羽衣天女」のお話が、ふたつ残ります。

こちらのお話もお楽しみ下さい。



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by ryouriryokanishi | 2014-07-11 23:34 | お話(丹後七姫伝説)  

丹後七姫伝説のご紹介・細川ガラシャ

細川ガラシャ(珠・玉)



明智光秀の娘、細川忠興宮津藩主の正室であった珠の、幽閉の地でもある「味土野」という地は、弥栄町の深く高い山の中にあります。
 夕日ヶ浦から丹後半島の中ほど、車で一時間ほど山の中に入り込むと、珠の庵があったとされる地があります。今では石碑が建てられて、お参りできるようになっています。美しさを忠興に愛されて、命をながらえ、匿われたという史実が今も残ります。
 本能寺の変、幽閉、キリスト教の信仰など、数奇な運命をたどる珠ですが、、ついには石田光成に城を包囲されて一生を終わります。波乱の人生をおくった珠の短くも怒涛の三十八年を、石碑の周りに咲く野の花を愛でながら、想ってみるのも如何でしょうか。


 
   「~~ 散りぬべき 時知りてこそ世の中の 
花も花なれ人も人なれ~~」



ご存知、「細川ガラシャ」も丹後のお姫様です。
今なお山深いかつての隠遁地で、当時ガラシャ婦人はどんな毎日をおくっていたのでしょう。

昔々の道無き道を、はるか山の奥まで・・
間人(はしうど)皇后様の丹後半島の小さな漁村(当時)よりもなお辺鄙な地、なぜその地を見つけたのか・・・?
なぜそこまで山奥なのか?
という疑問を感じるのですが。

間人皇后様は、親族が間人(たいざ)の地にあったと記録されています。


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歴史の旅の折は、ぜひ「夕日ヶ浦」で海遊びを。
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by ryouriryokanishi | 2014-06-10 11:37 | お話(丹後七姫伝説)  

丹後七姫伝説のご紹介・乙姫

 
この冬の「かに寿司」を召し上がれ。
丹後の「ばら寿司」に使う「さば」がお寿司の中にサンドされています。


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乙姫



 子供の頃から、浦島太郎(乙姫様)と羽衣天女のお話は慣れ親しんできました。
その御伽噺のルーツは丹後にあります。古くより韓国・中国との交流の玄関として丹後は存在しました。
丹後は、大陸から船出して一番近い外国だったのです。
物語もそうして船と共に訪れ、やがてかたちを変えて日本の御伽噺となりました。
浦島子又は水の江の浦嶼子(筒川嶼子)はそれぞれ網野と伊根に実在の記録とお話が残っています。
丹後半島全体に及ぶ一大勢力があったからと簡単に推察できるでしょう。
歴史上一番古い「日本書紀」に丹後の物語としての乙姫・天女が記録されています。


網野の浦島伝説


嶋子が釣をしていると美しい乙姫と出会いました。

乙姫の両親のいる竜宮城であまりの楽しさに、三年過ごしてしまいました。

望郷にとらわれ丹後に帰ると、屋敷跡には雑草が繁り知人は一人として残っていませんでした。

「竜宮へ再び帰ってくるなら、決して中をあけないで下さい。」と言われた小箱を嶋子は開けてしまいます。
そしてお爺さんになってしまいました。



このように、口伝で伝えられる内に現在の浦島太郎のお話に確立されてきたようです。

すっかり日本のお伽噺ですね。 

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丹後の「ばら寿司」です。
各家庭によって味が違いますが、甘口・少し濃いめの酢が特徴です。
おいしいですよ。

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by ryouriryokanishi | 2013-02-17 09:41 | お話(丹後七姫伝説)  

丹後七姫伝説のご紹介・川上摩須郎


2月7日15:00
雪はまだ降っていませんが、先ほどから風が強くなりました。
私以外は歩いていたら飛ばされそうな風です。

道路状況はこちらからご確認下さい。



丹後のお姫様、今日は久美浜町のお姫様です。
「川上摩須郎女さん」がご紹介されないケースの場合、「由良の安寿姫」が七姫に入ります。
由良海岸は丹後ではなく、舞鶴になりますので、「丹後七姫」には入りません。
有名な「安寿姫」の物語はまたの機会に・・・



川上摩須郎女(かわかみのますのいらつめ)


三世紀末から四世紀初頭にかけて「丹波の国王」として君臨していた丹波道主(たにはのちぬしのみこと)の奥方が川上摩須郎女でした。

大和朝廷によって日本が統一されるまで、日本各地には大小の国があり、それぞれに「国王」がいたと考えられています。

二人には一男三女が生まれ、三人の娘はすべて当時の垂仁天皇の奥方となりました。長女比婆須比売命(ひばすひめのみこと)は皇后となり、景行天皇やヤマト姫が生まれたそうです。

国同士の勢力攻勢のその時代、天皇家に無視できない勢力が丹後にあったといわれています。(丹後王国の海部氏・丹波氏・日下部氏は同族とされています。)

夕日ヶ浦より車で三十分くらいの久美浜町「伯耆谷(ほうきだに)」にこの一大勢力の遺跡が今も残っています。



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      「かにの天ぷら」、岩塩でお召し上がり下さい。
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by ryouriryokanishi | 2013-02-07 14:54 | お話(丹後七姫伝説)  

丹後七姫伝説のご紹介・小野小町

道路状況はこちらで



小野小町

  「 ~~花の色は  うつりにけりな いたづらに
  我が身世にふる ながめせしまに~~」

 丹後で特に「お米がおいしい」ことで有名な「五十河(いかが)」で、小野小町は生まれたといわれています。
「五十河」周辺は、かつて小野一族の持領・荘園で、当時は、「三重谷の里」と呼ばれていたそうです。

六歌仙の一人でもあり、平安時代の歌人として有名で、才色兼備、また男ぎらいとしても名高く、多くの謎、伝説を残しています。

 夕日ヶ浦から、五十河までは車で四~五十分くらいでしょうか。「大宮」の山の奥、五十河に小野寺(小野山妙性寺)というお寺があります。小野小町が葬られた寺で、由来を記した巻物が残ります。

 「~~九重の花の都に住みはせで
    はかなや我は三重にかくるる~~」

     今日お召し上がり頂きます丹後米は五十河の産です。
(石のごはんは五十河米です)



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夕日ヶ浦では12月から1月はじめまで、天然の「海苔」を摘みます。
少し静かな海の日に、波の無い間に「海苔」を摘み、細かく刻んで石をとり、板状に張ってその日の内に天日に干して乾かせます。
軽く火であぶって醤油をつけ、炊き立てごはんと食べる・・・極上の「手間ごちそう(手間、時間のかかったごちそう」です。歯ごたえ、香りの良いこと、良いこと。最高ですよ。
石では時々「かに雑炊」の時、「生海苔」を入れてお作りすることがあります。夕食時に「雑炊」がおなか一杯で食べられないお客様で、朝召し上がられるケースです。
こちらは干していない「海苔」で、手摘みして石をとって洗った「海苔」です。
刻んでいないので、歯ごたえが特別コリコリしていておいしいですよ。地元ではこれを「つぼのり」と呼びます。
ご機会がありましたら、お試し下さいませ。

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by ryouriryokanishi | 2013-01-28 09:38 | お話(丹後七姫伝説)  

丹後七姫伝説のご紹介・羽衣天女その一

羽衣天女

    
 「羽衣天女のお話」、その御伽噺のルーツは丹後にあります。古くより韓国・中国との交流の西の玄関として丹後は存在しました。物語も船と共に訪れ、やがてかたちを変えて日本の御伽噺となりました。この物語は「丹後国風土記逸文七一三~七一五記」に残されています。

峰山に残る羽衣天女の物語・その一

比冶の山頂に「真奈井(まない)」という美しい池があり、八人の天女が水浴びをしていました。そこへ通りかかった老夫婦が羽衣を一枚隠してしまい、天に帰れなくなった天女に、「私達には子供がない、どうか子供になって下さい」と頼みました。

天女は一緒に暮らすことにして、万病にきくという酒造りをしました。十年程して家が豊かになると老夫婦は、「お前はわしらの子ではないから出ていけ」と天女を家から追い出しました。嘆き、悲しんだ天女はさ迷い歩き、奈具の村に来て「やっと私の心はなぐしく(おだやかに)なりました」と言い、その地にとどまりました。

この天女が丹後一円に祀られている「豊宇賀能命(とようがのみこと)・豊受大神(とようけのおおみかみ)」だと伝えられています。のちに豊受大神は伊勢の天照大神の御膳を司る神様として、止由気の宮(伊勢の外宮)にお迎えされました。古代丹後の一番古い神様は今伊勢にいらっしゃいます。    



・・・・・・あんまりではないですか・・・天女さんを追い出すなんて・・
やっぱり「お伽話」はクールなお話が多いですねぇ。

ここは「かにしゃぶ」でも食べて、気持ちを変えて下さいませ。

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by ryouriryokanishi | 2013-01-19 18:34 | お話(丹後七姫伝説)  

丹後七姫伝説のご紹介・間人皇后

雪情報はこちら
     12月26日10:30 雪予報が出ていますが、今日はまだ降っていません。


 間人皇后(はしうどこうごう)          

 三十一代用明天皇のお妃

夕日ヶ浦より車で三十分くらいの場所に、かに漁の漁港で有名な「間人(たいざ)」があります。
地名が読みにくいのも特徴ですね。

さて、それは六世紀後半のお話です。

聖徳太子の聖母・間人皇后は、大和政権の蘇我氏と物部氏との争いを避けるため、自分の領地であった、当時の大浜の里(間人)に身を寄せました。

やがて大和斑鳩の宮に戻る際、里人の手厚いもてなしに感謝して、自分の名を里に与えました。

「~~大浜の 里にむかしを とどめてし
   間人村と 世々につたへん~~」

里人は、皇后の名をそのまま地名に使うのは恐れ多いと、この地を御退座されたのにちなんで、間人(はしうど)を「たいざ」と読み伝えました。

 間人の海岸には、間人皇后と聖徳太子の母子像があります。
間人の立岩と共に、写真スポットにお勧めです。



旧「大浜の里」、現在の「間人」には、聖徳太子とともに避難されていたという説もあります。
丹後の全盛期の後のお話ですが、まだこの頃も当時の勢力への影響力大であったと思えます。
まだそこかしこに出身地や親族関係があったのでしょう。


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                焼き立てを召し上がれ
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by ryouriryokanishi | 2012-12-26 10:33 | お話(丹後七姫伝説)  

丹後七姫伝説のご紹介・静御前

お料理の「紙お膳」に「丹後七姫伝説」を新しくつくりました。
お食事のひと時、丹後の、昔々のお姫様を紹介します。

実は・・・私たちはお姫様の末裔なんです・・・。


静御前

 網野町の「磯」という漁村に静神社があります。

 源義経の愛妾だった静御前を祀った神社です。

 禅師の娘だった静は、六歳の時父親の逝去を期に、母に連れられ京に上がり、白拍子となります。十八で義経の愛妾となりますが、義経は兄頼朝に疎まれ、やがては義経との子供も頼朝の手にかかります。

「~しづやしづ しづのをだまきくり返し 昔を今になすよしもがな~」

と義経を慕う歌を唄って舞ったことは悲恋の物語の代表エピソードとしてあまりにも有名です。

 天明二年(一七八二年)の磯村の大火によって静の残したものは失われてしまいましたが、村の人々の口伝によって静の記録は伝えられてきました。一説には、壇ノ浦の戦いの時、義経に請われた磯の漁師達が、舟の舵をとったということです。日本海の荒波に慣れた漁師達は瀬戸内の荒波の中で、強い味方となったことでしょう。

(夕日ヶ浦より車で二十分程北に「網野町・磯」と「静神社」があります



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~~ロマンを愉しみながら お召し上がり下さい~~
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by ryouriryokanishi | 2012-12-13 21:03 | お話(丹後七姫伝説)